古都における世界遺産(2)

鹿苑寺

 京都市の御室・衣笠保存区域内の金閣寺特別保存地区の鹿苑寺(金閣寺)についてご紹介しましょう。

 その前にまず、鹿苑寺が最初に造営された時代について復習しておきたいと思います。

 元弘の乱後足利尊氏、新田義貞らにより1333年鎌倉幕府は倒壊し、後醍醐天皇による建武新政が始まりました。しかしそれも束の間、1336年からは抗争、戦火の絶えない半世紀余に及ぶ南北朝時代を迎えます。1392年に、3代将軍・義満が勢力の衰えた南朝を吸収する形で南北朝を合体させると共に、守護大名の制圧にも成功します。明との勘合貿易により巨万の富をも蓄積した義満は、京都室町の地に「花の御所」と呼ばれる豪華絢爛な新居・室町殿を建造します。今日で言う勝ち組の中の優勝者とでも言えるでしょう。「花の御所」の在った場所に因んで、足利幕府は後に室町幕府と呼ばれるようになった事はご存知の通りです。

 公武両勢力の頂点にまで上り詰めた義満は、1394年36歳で将軍職を僅か9歳の長男・義持に譲り、自らは太政大臣に就任します。翌年この太政大臣は辞し38歳で出家してしまいすが、実権はその後も握り続けます。そして1397年北山殿(北山第とも)の造営に着手し、翌年に完成するや贅を尽くした「花の御所」から移り、亡くなるまでここに居住することになります。

 この時期、都は内戦や飢饉、疫病が絶えなかったにも拘らず、義満はこの様な世情に関する世直しよりは、国の最高権力者としての地位の確立に情熱を傾けていました。北山殿造営は新たな政治、経済、宗教等を統べるためのシンボルであり、その拠点造りでもあった訳です。足利将軍の下には階級に関係のない同朋衆と呼ばれる河原者等が近侍していましたが、特に義満は、能楽、華道、仏工、画工、作庭等各種芸能、技芸に長じた同朋衆を重用し、これまでの貴族、僧侶を中心とした文化、芸術とは一線を画した文化の創出にも熱心でした。今日に伝わる有形、無形の北山文化と称されるものです。

鹿苑寺(金閣寺)

 金閣寺は、京のまちの北西に位置する衣笠山の東の麓に在ります。正式の名称は鹿苑寺ですが、主要部を構成するのが三階建ての金閣を中心とした池庭であることから、通称金閣寺と呼ばれています。

 話は変わりますが、私の通っていた高校はこの近くにあります。既に半世紀も前の事になりますが、冬場の体操時間には衣笠山や大文字山(京都五山の送り火の一つ、左大文字のある山)までのマラソン走があり、あまり自動車も多くなかった時代、学校のグランドから外に出て街中の未舗装道路を走るのが結構楽しかったことを思い出します。

 この地には、鎌倉幕府の信任が厚く京で権勢を揮った藤原(西園寺)公経が造った山荘と浄土式の庭園(北山殿)が在りました。この北山殿が西園寺と名付けられて以降、西園寺家と称せられるようになったそうです。その豪華さたるや、藤原道長が200年前に贅を尽くして造った邸宅にも劣らないものだったと言います。しかし鎌倉幕府滅亡後後ろ盾を失った西園寺家は衰退、北山殿も次第に荒廃し修理もままならない状況だったようです。

 1397年、既に剃髪して出家していた義満は西園寺家からこの土地を手に入れ、「花の御所」に代わる権勢の発揮できる場所として北山殿の造営に着手します。翌年には寝殿、舎利殿等を完成させ、1408年51歳で没するまでの10年間をここで過ごしました。

 義満は北山殿を造営するに際して、それまでの浄土式庭園の改造を始め鹿苑寺のシンボルである舎利殿・金閣、池泉鏡湖池の島の石組みなど、夢想国師の西芳寺(苔寺)の庭園をモデルにしたと言われています。舎利殿・金閣は、西芳寺の黄金池畔に在った瑠璃殿を手本にしたと言われていますが、三階建てで一階は法水院、二階は潮音洞、三階は究竟頂と呼ばれています。建築様式が階毎に異なり、一階は貴族の住居形式の寝殿造の阿弥陀堂、二階は武家の居住形式の書院造の観音堂、三階は禅宗寺院様式の仏間となっています。各階の様式を下から寝殿造り、書院造利、禅宗寺院様式にしたこと、更にご存知の通り二階と三階にのみ金箔が押されていることにはどの様な意図が込められているのか、重要な意味が有りそうに思われます。金閣の南側に広がる鏡湖池は舟遊池で、金閣の一階西側の所に釣殿風に突き出した漱清亭から舟を出して浄土の境を楽しんだとの記録が多く残されています。

 鏡湖池の西側中央部に出島が在り、また池中央に最大の中島である葦原島(蓬莱島)、鶴亀両島、淡路島等の島や赤松石、畠山石、九山八海石等の岩島が多く、多島式で回遊式の庭園です。これらの島の中で特に注目したい石が在ります。

鏡湖池の水面の向こう葦原島の中央が三尊石。その左側に荒磯を表わす石組み、左端中段に見えるのが細川石。

一つ目は葦原島北側中央の三尊石石組みです。これも西芳寺の黄金池霞形中島の三尊石を手本にしたものと言われていますが、石の大きさが全く違います。中央の最も大きな石は高さ約1.8メートル、重さ10トンもあり、これ程の巨石を庭園の景石として用いた恐らく初めての事例ではないでしょうか。

金閣と葦原島間に在る主要な島。左が鶴島、右が亀島、鶴島の左端手前に見えるのが九山八海石。

二つ目は園路から見る鶴島のすぐ手前に在る九山八海石です。遥々明国から運ばれた名石です。九山八海とは九つの山とその間の八つの海より成る壮大な須弥山世界を表す言葉です。室町時代に、優れた素晴しい名石に九山八海石と命名し、九山八海を一石で象徴するようになったとされます。金閣寺のこの石はその代表例です。

鏡湖池北東部、金閣に近い場所から葦原島の三尊石と鶴島、亀島の間を通して西方の出島方向を望む。左から三尊石(A)、赤松石(B)、畠山石(C)。

三つ目は大名や管領からの寄進石です。当代最高の権力者である義満には多くの寄進が有りました。鏡湖池に今に残る名前の付いた三つの石が有ります。葦原島東端近くに亀が鎌首をもたげた様に見えるのが細川石、出島の北に並ぶ畠山石と赤松石です。何れも見掛けは極端に控えめに据えられていますが、豪健な石組みを構成しています。また金閣の北側を回り込み、西園寺時代からの遺構という安民沢の方へ坂道を進むと龍門瀑があります。当初は15メートル以上落差のある豪快な瀧だった様です。しかしながら、これ等の島、石組み、石島には、それぞれ中国から伝来した密教・真言宗、禅宗やわが国で発達した浄土教などの仏教系思想に加えて、中国漢民族の伝統宗教である道教など様々な宗教上の思想表象が施されており、全体としても統一性に欠けている様に見えます。そのため、この様な様式の多様性、全体としての不統一さは、優れた技能を有する同朋衆の作庭家何人かが、寄進された材料を用いそれぞれ得意とする技能を駆使して部分部分を造営した結果ではないかとも想像されます。一方、本池庭は西園寺家が作庭した北山殿の池景をほとんど残した鎌倉時代のものとの見方もあります。いずれにしても本池庭の観賞は、金閣楼上の二階潮音洞からと鏡湖池を舟遊しながら眺めるのがベストの様ですが、義満自身でも賓客でもない私達一般人には適いそうにないです。

 義満の没後も暫くは施設の拡充などが続きますが、1419年夫人日野康子が亡くなると後継将軍義持は、偉大な父義満への反感から北山殿の楼閣は金閣以外殆どを解体移築し、境内地は縮小してしまいます。禅寺として鹿苑寺と名づけられた義満の菩提所は、その後の応仁の乱で更に崩壊が進み、縮小された鏡湖池と舎利殿が面影を残す程度だったそうです。義満の孫である義政の時代を経て義政の孫の時代になり、鹿苑寺は徐々に復興に向かい、江戸時代になってから更になる造営、再建が繰り返され、20世紀になってからは国費による金閣寺の大修理も行われ日本を代表する観光施設の地位を確保するまでになりました。

 1950年7月初め金閣寺は若き学生僧の放火によって瞬く間に炎上してしまいます。金閣寺の「美しさに対する嫉妬」だったと言います。この事件を題材とする三島由紀夫の「金閣寺」、水上勉の「金閣炎上」、市川崑監督の映画「炎上」などでは、犯人が金閣寺の美しさに魅せられて放火したとの解釈だったと思います。現在の金閣は、明治時代の実測図に基づき1955年(昭和30年)再建されたもので、江戸時代に改造された部分も元に戻し創建時の姿に再建されました。再建に掛かった費用は当時 2、800万円だったそうです。その後1987年(昭和62年)に続き2003年(平成15年)にも金箔の補修が行われ平成の輝きを放っています。

1956年(昭和31年)金閣寺庭園、国の特別名勝・特別史跡に指定。
1967年(昭和42年)金閣寺特別保存地区に指定。
1994年(平成6年)ユネスコの世界文化遺産に登録。