古都における世界遺産(3)

慈照寺

 先回は鹿苑寺(金閣寺)についてご紹介しました。室町幕府三代将軍足利義満が北山殿を建設したのは、尊氏が1338年京都に幕府を開いてから60年後のことでした。太政大臣として権力の頂点まで昇りつめながら、将軍職も義持に譲り38歳で出家してからです。明との勘合貿易で自らを「日本国王」と名乗り、能を初めとする諸文化を庇護・育成したことなどから推察すると、「御所」と呼ばせた北山殿の造営は義満の野望の大事な一里塚だったと思われます。1408年春、北山殿への後小松天皇行幸から2ヵ月後義満は急逝し、その野望を歴史上に残すことはできませんでしたが、庇護・育成した諸文化は北山文化と称せられ、日本を代表する伝統的芸術文化の中に確固たる地位を保持しています。この北山文化に並び称せられるのが東山文化です。今日私たちが感じる日本の美、伝統的な芸術文化の多くは、この東山文化の中で形成されたと言っても過言ではないでしょう。その中心となったのが東山殿即ち慈照寺(銀閣寺)であり、室町幕府八代将軍足利義政です。

 前置きが長くなりましたが、今回は京都市の東山保存区域内の大文字特別保存地区の慈照寺(銀閣寺)についてご紹介しましょう。

 三代将軍義満の孫に当たる義政が14歳で将軍となる1449年頃には、足利幕府の権威、財力は相当に弱体化していたようです。義満の死後僅か40年です。天変地異による飢饉、各地で次々起こる一揆など世情の不安、不満が充満し、京の町は地獄の様相を呈していました。1460年頃には1〜2ヶ月で餓死者が数万人にも達し、洛中に放置されたままの状態だったと言います。それでも義政は施政能力を発揮出来ないまま花見に興じていました。その頃詠んだという 「咲き満ちて花より外の色もなし」 の句が残されています。その状況に拍車をかけたのが義政の跡継ぎ問題に端を発した応仁の乱(1467〜77)でした。この戦乱の最中、1473年将軍職を8歳の息子義尚に譲った後は、政務はもとより兵火や民の苦しみなどこの世の一切の煩わしさから逃れるため、隠居所としての別荘造営に異常な程の執念を燃やします。あちこち場所選定した後、ついに1482年義政は現在の銀閣寺の地に山荘造営を決します。それから8年間、義政は残る総ての情熱を東山殿に投入するのですが、1490年銀閣(観音殿)の完成を見ずに55歳の生涯を終えてしまいました。1392年の南北朝合一から、1573年、15代将軍義昭が織田信長によって京都を追われるまで約200年間の室町時代。丁度中間折り返し点を過ぎたばかりの頃の出来事です。義満以降の斜陽幕府の再興は出来なかったけれども、東山文化の庇護者としての義政の功績は計り知れないものがあります。

 話は変わりますが、京都の夏の風物詩 8月16日京の夜空を焦がす大文字の送り火は、高校生まで京都市内で過ごした私にとって、夏休みの宿題に本腰を入れて取り掛かる恰好の合図でした。この大文字の起源に関しては、義政が将軍職を譲った息子義尚の死を悼み新盆を迎えるに際し、如意ヶ岳山腹に火床を掘らせ点火し霊を弔ったという説があります。義政が精魂を込めた銀閣寺はこの大文字山(如意ヶ岳)の麓に在ります。既に紹介しました西芳寺を手本に造営された東山殿の庭園について、見所の幾つかを挙げて見ましょう。
 

1.銀閣(観音殿)と東求堂

 現在の規模とは比較にならない広大な規模の東山殿には常御殿、会所の主建築の他数多くの建物が在りましたが、その後16世紀中頃の戦乱によって殆どが焼失し、義政時代のものとしては銀閣(観音殿)と東求堂の二棟が残るだけです。

 錦鏡池畔に建つ杮葺き宝形造りの楼閣観音殿は、西芳寺黄金池畔に在った瑠璃殿をモデルにしたと言われています。第一層は書院造で「心空殿」、第二層は禅宗仏殿風で「潮音閣」と呼ばれています。鹿苑寺金閣は当時から金閣と呼ばれていたのに対し、慈照寺観音殿が銀閣と呼ばれるようになったのは江戸時代の修復後のようです。最近までの調査でも当初から銀箔は押してなかったとされています。ただし庇裏の部分に施された胡粉の中に銀が検出されたそうで、恐らく江戸時代の修復時に創られたという銀沙灘や錦鏡池に反射する月光を室内に導くため、軒下で反射させる目的で庇裏に銀箔を施したのではと推察されています。

 東求堂は現在方丈の東に在りますが、当初は錦鏡池に面した観音殿に近いところ、現在砂の山向月台の辺りにあったと推定されています。一層の入母屋造り。桧皮葺きの現存する最古の書院建築です。内部には阿弥陀仏と義政像が安置されており春秋には特別公開されます。東求堂北東隅には同仁斎と名づけられた四畳半の書院があり、義政はここでわび茶の開祖である村田珠光から茶の湯の教えを受けました。このことから同仁斎が茶室の起源だとする説もあります。茶道はその後武士階級の文化として重要な役割を果たすようになります。また義政自身は出家して禅僧となりましたが、東求堂前の池泉には浄土への思いを託した蓮が植えられ、浄土式庭園の様相であったとも言われています。

2.銀閣寺垣                   

銀閣寺垣
総門を入ってすぐクランク状に続く参道の左側に見えるのが銀閣寺特有の銀閣寺垣

 銀閣寺庭園へのアプローチ。総門を潜って直角に曲がると、幅約4.5メートル、延長50メートルの参道の左右両側に、高さ7〜8メートルの垂直な生垣面が屹立しています。左側は空石積みの上に銀閣寺垣と呼ばれる竹垣、その上にツバキを主体とする生垣です。右側はやはり空石積みの上にヤブツバキ、アラカシ、ネズミモチを主体とする二段の生垣です。現世と断絶した別世界への誘いを感じさせる見事な折れ曲がり技法です。この演出も江戸時代の修復時に施されたものです。

3.銀沙灘と向月台  

銀沙灘と向月台
銀沙灘と向月台は江戸時代の慈照寺修復時に造られました。奥に見える銀閣(観音堂)は、現在屋根の葺き替え工事中(22年3月まで)です。

 江戸時代初期1615年から、宮城丹波守が概ね現在のような池泉回遊式の庭園に改修したと伝えられています。慈照寺が放置に近い状態であった100年余りの間、背後の大文字山から流出した白砂が庭園の池泉を埋めていました。池浚いをして砂を掘り上げ盛砂にしました。その後も池浚いによる砂量が増え、江戸時代の後期には、向月台と銀沙灘という斬新な景が生まれました。今では台形円錐の向月台は180センチ程に、波打つ砂台地の銀沙灘は40センチ程に成長し、銀閣寺庭園の象徴となっています。造園芸術は長い年月の間に変化し変容する時間芸術でもあります。 

4.錦鏡池

護岸石組
銀鏡池の水際線の護岸石組は、室町時代特有の剛健な技を伝えています。

 今日では錦鏡池畔の西南端に銀閣、北端に東求堂が建っています。池の周囲を回遊するに従い建物や池中の島、立石などが見え隠れする景の変化を楽しむことが出来ます。さらに錦鏡池には現在7つの石橋が架かっています。それぞれ難しい名前が付いていますが、名前よりも一つずつの姿を比べて見てください。自然石か切石か、一枚か二枚か或は変形三枚(三橋式)か、平石か反り石か、橋の両端に置く橋挟み石の特徴などがよく分かると思います。また池周囲の護岸石組につきましては、緻密な出来の所と粗末な出来の所が在ります。江戸時代以降の修復時には義政ほどの思い入れも無く、手間、暇も掛けなかった結果が見て取れます。

5.造園 

 東山殿の造営には多くの阿弥衆、同朋衆が起用されました。庭園の建設には善阿弥或はその子の小四郎、東山殿御物の選定には能阿弥が重用されました。造営に必要となる多大な費用と労働力を確保するため、幕府は大名、社寺、農民に税を課すと共に直接人夫の徴用をも要求しました。また、木材、名石、名木などは京都周辺の社寺から略奪しました。仙洞御所や室町の花の御所、鹿苑寺からさえ持ち出したそうです。それほどの執念を燃やして造営した東山殿も義政の死後、一気に荒廃の途を辿ることになります。略奪された社寺等元の持ち主による樹木や景石の搬出や戦乱による焼失などによるものです。それにも拘らず、江戸時代以降今日まで多くの人々によって修復され維持されて来た銀閣寺は、東山文化の輝きを私たちに感じさせてくれています。

1952年(昭和27年)銀閣寺庭園、国の特別名勝・特別史跡に指定。
1967年(昭和42年)大文字特別保存地区に指定。
1994年(平成6年)ユネスコの世界文化遺産に登録。