古都における世界遺産(5)

清水寺

 清水寺は、広隆寺、鞍馬寺とともに平安遷都の頃からの古い歴史のある寺院です。12世紀の「今昔物語集」、江戸時代に出版された京都の洛中洛外、近郊の名所案内書「都名所図会」(1780年)、「清水寺縁起」などに、その起源に関する記述があり、またこの情景は「都林泉名勝図会」(1799年)の中でも「田村将軍遇僧延珍」として図版が掲載されています。

音羽山清水寺「都名所図会」

 奈良時代の末頃、賢心(後に延鎮)上人が霊夢に導かれて音羽の滝を訪ね、そこで行叡翁に出会います。翁はその地で200年も隠遁していたと言い残して消えてしまいます。延鎮上人は翁の草庵で修行を続ける内、妻の病の薬とするため鹿狩りにやって来た将軍坂上田村麻呂に出会うことになります。将軍は上人の教えに導かれ深く観音に帰依し仏殿を建立します。その後二人は協力して、本尊十一面千手観音像、脇侍の地蔵菩薩、毘沙門天像を造り本堂に安置したのが延暦17年(798)とされています。弘仁元年(810年)勅令により鎮護国家の道場となり、嵯峨天皇から「北観音寺」の宸筆を賜ります。しかし平安末期にもなりますと、比叡山延暦寺と南都興福寺との争いに巻き込まれて度々焼失の憂き目に会い、現在の堂宇の多くは寛永時代(1633年)3代将軍徳川家光の寄進によって再建されたものです。

庭園右(東)側の音羽山に向けてのツツジの刈り込み

 清水寺で一般的に最も有名なのは「清水の舞台」ではないでしょうか。総檜張りで 約190屐,旅さがあります。急崖地に最長13m周囲2.3m もあるケヤキ柱約140本で舞台を支えています。何か思い切った決断や行動をする時に「清水の舞台から飛び降りる積りで」という諺通り『命をかけて飛び降りれば願い事がかなう』との庶民信仰があったようです。清水寺の古文書「成就院日記」の記録によると、元禄時代から幕末の頃までの148年の間に234件の飛び降り事件があったそうです。下には樹木などがあって生存率は85.4%と高かったようですが、60歳以上の6人は全員死亡だそうです。明治政府になってから、飛び降り禁止令を出し、柵を設けてから下火になったと言います。

豊臣秀吉が寄進した「誰が袖手水鉢」 手水鉢の向こうに白い花をつけたワビスケの刈り込み

 清水寺の賑わいは、平安時代からのものでした。「枕草子」で 『騒がしきもの』 の例として清水寺の縁日が挙げられている他、「源氏物語」や「更級日記」を始め、多くの古典文学にもとり上げられています。近世には、浄瑠璃や歌舞伎にも登場するようになります。江戸時代になりますと観光で京都を訪れる人々は、まず清水寺の参詣から始めたものです。入り口の西門から、あるいは本堂の舞台から内裏(御所)や東寺の五重塔、洛中の各名所がことごとく展望出来たからです。明治時代になり神仏分離・廃仏毀釈の政策によって社寺の所領は上知を命じられ、かつて15万坪以上あった清水寺の境内地は、当時1万4千坪弱と一割以下に減ってしまいました。清水寺の打撃は大きかったにも拘らず、歴史的風土、環境、景観、観光に果たす役割は今日ますます大きくなっていると言えます。

本坊成就院

 京都でも最も人気の高い観光寺院の一つで、年中大勢の人で賑わいを見る清水寺では、殆んどの人が、修復を終えた朱色鮮やかな仁王門を潜り、舞台で有名な本堂へと向かいます。この仁王門の左手石畳の道を進むと、中央の賑わいが全く信じられないほどの静けさの先に、清水寺本坊の塔頭成就院があります。

 室町時代 15世紀後応仁の乱で焼失した清水寺を復興した願阿上人によって煮創建されたものですが、現在の建物は江戸初期寛永時代に、東福門院の寄進によって再興されたものです。 成就院は先述の「都林泉名勝図会」では、三枚の図版で紹介され、庭園については相阿弥作、小堀遠州による補修と記されています。これに先立つ享保20年(1735年)に出版された「築山庭造伝」には、庭が「典雅温淳体  庭のてい ゆたかに のどやかなるすがた」と紹介されています。

 庭の面積は1500崢ですが、庭の周辺を取り囲む音羽山、高台寺山、高祥山を借景し、庭園と山景が一体となるように造園されています。例えば、庭園正面(北)奥に続く湯屋谷との境生垣を低く刈り込み、借景した高台寺山の山中に石燈籠を一基据えることにより、庭園と高台寺山との連続した景観形成を図っています。また右(東)側の音羽山山腹の斜面に沿って、幾重にも重なるツツジ類の刈り込み。下辺部は丸形で、近くを大きく遠くを小さく造形的に刈り込み、斜面中段から上段にかけては四角形にし、丸形とは逆に上方遠くなるほど大きく刈り込まれています。遠近法を応用し、山林樹木の大きさに馴染むように仕上げることで庭と周辺山景との一体化を図っています。このような技法を駆使して、無限の広さを感じさせるように工夫されていますが、景観形成、樹木の配植や剪定手法、景物の配置などから見て、遠州好みの正に江戸時代初期の代表的な借景式、池泉回遊式庭園です。

 さらにもう少し個別に部分的なところを見てみましょう。

 庭園は書院の北側にあります。書院の縁先から鑑賞すると、庭園の南から北を向いて鑑賞することになります。庭園を構成する景物は陽に照らされた明るい面を眺めることになります。ただし縁側直ぐに据えられている豊臣秀吉の寄進と伝えられる誰が袖手水鉢は、軒下のため明るくはないですが、その形から存在感は抜群です。鉢石そのものが胴体に袖を付けた様な特異な形をしています。池正面に据えられた方形状の籬島石は、下方に窪んだ穴があり、その右側の亀島に立つ烏帽子石とともに陰陽石の対を構成しています。亀島の首の部分に据えられている蜻蛉燈籠。形がトンボに似ています。水面に映る像が細波で揺れて陽炎のように見えることから、カゲロウトウロウと呼ばれることもあるようです。樹木にも目を引く景観木があります。亀島の奥に濃緑のゴヨウマツ。かなりの老高木で、こちらからは幹や枝がほとんど見えず、独特の剪定が施されています。その背後には色鮮やかに紅葉したモミジがあります。勿論これは庭園外、北側の湯屋谷の沢筋に生えているもので、見えているのは梢の方。根元径は一抱え以上あるそうです。庭園左(西)側にある白い花をつけるワビスケの大木も独特に剪定されています。書院の西側に置かれた水禽窟の手水鉢、西庭の三角燈籠などの景物も一見に値する名品です。

正面は亀島にすえられた烏帽子石。その左が蜻蛉灯篭。

 成就院庭園はかつて京都に三か寺あり、雪月花三つの庭園があったそうですが、現在では清水寺の成就院庭園だけが「月の庭」として残っています。書院の屋根越しに射す月の光に照らされる庭の夜の景が美しいことからこのように称され、国の名勝に指定されるに至っています。

 通常は非公開となっています。春秋の時期に特別公開されます。春はゴールデンウィークの頃です。秋は11月の後半から12月の初めの頃、周辺の紅葉がライトアップされ夜間も鑑賞できます。是非その時期を狙って春の新緑、秋の紅葉を愉しんでもらいたいものです。ただしこの時期も鑑賞は書院からで庭園回遊は出来ませんし、写真撮影は禁止されています。

 清水寺の建造物、彫像等美術工芸に関する文化財の指定については省略します。

・成就院庭園/国の名勝指定
・清水歴史的風土特別保存地区指定/1967年(昭和42年)
・ユネスコ世界文化遺産登録/1994年(平成 6年)