古都における世界遺産(8)

醍醐寺

 記録的な猛暑が続いた九月上旬までは、外を歩くのが大変でした。それからわずか二カ月ほどしか経っていないのに、11月末の現在、日溜まりが恋しく感じられる紅葉の季節になりました。今回は、紅葉の美しい山科盆地南部の醍醐寺を紹介しましょう。

 普通一般に醍醐寺というと、三宝院や金堂、五重塔のあるところを意味しますが、厳密にいうとこの辺りは下醍醐で、下醍醐寺です。寺全体としては醍醐山頂付近に上醍醐寺があり、醍醐寺発祥の処でもあります。今回豊臣秀吉が花見をしたという場所、醍醐味の語源となった醍醐水などを確認するため紅葉の美しい上醍醐を参拝して来ました。

1.醍醐寺の由緒と歴史

(1)上醍醐寺に登る

 これまで私も下醍醐までしか来たことがありませんでした。標高約450メートルにある開山堂までの道はかなり険しいとのことで、覚悟を決めて挑戦しました。

 醍醐寺の総門を入って左手に三宝院を見ながら、東の方へ真直ぐに進むと仁王門に至ります。ここで600円の拝観料を納めて金堂や五重塔の並ぶ伽藍を通り抜け、上醍醐への参詣山道に入ります。ここでもう一度入山料600円が必要となります。朝の10時前に登り始めましたが、人影が途絶えることのない程度に結構多くの人に行き交います。日課のように毎日お参りしている常連の人達なのです。私は不案内な道なので、常連らしい人に話し掛けました。原田さんとおっしゃる77歳の男性で、すこぶる健脚の持ち主でした。彼はJR山科駅の近くからバスに乗って来て、殆ど毎日お参りしているとのこと。「今日は早いね!」とか「しばらく会わなかったね!」など、道々往きちがう人とあいさつを交わします。因みにこのような常連の人達は、年間入山料として3000円を納めているのだそうです。

 原田さんは私を案内するために大分歩行スピードを落として、道すがら色々な説明をしてくれました。醍醐山の紅葉は、私には十分素晴らしい景観と見えましたが、今年は気象の関係からか例年程でないこと。赤や黄色の落ち葉でカラフルな絨毯を敷き詰めたようだった参道が、最近掃き清められて却って風情がなくなったこと。国宝だった五大堂はその昔護摩の火が屋根に燃え移り焼失(1932年4月)、同じく国宝だった経蔵も山火事で焼失(1939年8月)、大きな杉の焼け残った株を示しながら1968年に再建された准胝堂が落雷によって全焼し(2008年8月)、今年の春頃まで入山できなかったこと。頂上の開山堂近くの展望台では、昔は大阪城が見えたのだがといった景観・景色の変化のこと。さすが何年も毎日参拝を継続中のキャリアを感じさせるものでした。名ガイドのお陰で往復約1万歩の山道を2時間余りで踏破することが出来ましたが、下山した時には足がフラフラする位相当厳しい行程ではありました。

(2)上醍醐と醍醐水

 醍醐といえば豊臣秀吉が晩年に催した花見の宴で有名ですが、寺院の起源はずっと古く、1100年以上も前のことです。空海の孫弟子にあたる聖宝(832〜909年)が、真言密教の拠点として現在の上醍醐、笠取山頂に草庵を建立した(874年)のが始まりとされています。2年後には准胝、如意輪の両観音を彫刻させ、両像を安置するための堂宇を完成させています。醍醐寺開創説話によりますと、その場所は山清水を酌んで「醍醐味なり!」と声を上げた老人に聖宝が遭遇した場所だそうです。この老人、実は地主神の化身だったといわれています。

 醍醐というのは、ご存知の方も多いと思いますが、牛乳を精製して作られる最も美味しいもの、言わばチーズのことで薬でもありました。仏教では最高の真理、最上の教えのことを指します。そんな訳で湧き出る清水は醍醐水、この辺りを醍醐と称するようになったのです。

 タオルで汗を拭いながら登った上醍醐の参道で、途中にあった醍醐水は確かに乾いた喉を潤してくれる美味しい水でした。

(3)下醍醐

 笠取山頂に堂宇を造営して以来30年余の後、907年に醍醐寺は醍醐天皇の勅願寺となり、さらに913年には朝廷から一定の保護を受ける定額寺となって、大いなる発展を遂げます。同時に貴顕の参詣も多くなったのですが、上醍醐への参拝は、私の経験からも相当な困難を伴うもので、もっと便利な笠取山の麓に大規模な伽藍が造営されることになったのは必然でした。

 国宝となっている五重塔は、醍醐天皇の一周忌に当たる931年に着工し、951年に完成したものですが、応仁の乱にも焼失せず創建当時のまま残っている京都で最も古い建築物です。

 三宝院は醍醐寺第14世座主勝覚が平安末期(1115年)に創設したものです。鎌倉時代以降度々の火災により焼失したりしますが、足利氏の帰依を受けて力を得、三宝院院主が醍醐寺の歴代座主を務めるようになりました。応仁の乱ではやはり本寺も荒廃しますが、第80代座主義演が豊臣秀吉の支援を受けて復興し、庭園の改修などにも力を注ぎました。

 なお、伏見城から移築されたとも言われている三宝院の国宝の唐門は、2008年秋から約一年半かけての修理が終わり、金色に輝く紋章も鮮やかに華麗豪華な姿を見せています。

2.醍醐の桜

 醍醐といえば直ぐに思い出すのが秀吉の花見のことでしょう。

都名所図会 下醍醐

【図の解説】
左下から右上に斜めに通じる主参道。手前が西で奥が東方向。
桜の花見を楽しむ人々がえがかれています。
左頁中央が三宝院、「藤戸石」の文字が見える。その斜め右上には「花見山」の字も見える。
右頁には仁王門、本堂(金堂)、そして右端に五重塔。後方の山が醍醐山。

 このシリーズで毎回のように登場する都名所図会(秋里籬島・1780年)には下醍醐と上醍醐について掲載されています。下醍醐の頁は三宝院とその奥の仁王門内の伽藍に本堂、五重塔などが描かれ、やはり桜の時期の人の賑わいを表しています。この絵の左頁上方に「花見山」の字が見える処が秀吉の醍醐の花見の主会場となった場所です。

 なぜ秀吉は日本最大の花見を醍醐で催したのでしょうか。

 醍醐の地は古くから桜が美しいことで有名だったようです。13〜14世紀の文献、資料には当地での花見のことや現在も行われている桜会のことが出てきます。色々調べて見ましたが、それ以前のことは余りよく分かりません。

 すでに述べたように、醍醐寺は907年に醍醐天皇の勅願寺になり、913年には定額寺になりました。

 ここで本誌第66号(2010夏)掲載のシリーズ擦凌力損の内容を想起して下さい。仁和寺を完成された宇多天皇は桜をこよなく愛され、境内には桜を一杯に植えられたと紹介しました。退位後は法皇として御室に長く住まわれました。次の天皇として即位されたのが宇多天皇第一皇子の醍醐天皇でした。御歳13歳です。醍醐寺が勅願寺になったのは即位後10年を経ていますが、この間桜の愛好家であった宇多法皇の意向が強く反映されたに相違ないと思います。勿論醍醐の山には自生の桜もあったでしょうが、勅願寺境内には多くの桜が植えられたものと推測されます。

 それから600年余が過ぎ、世は豊臣秀吉の時代に。醍醐寺は桜の名所として一段と有名になっていたことでしょう。ここで再度本誌第63号(2009秋)掲載のシリーズ肯軌損その二で、竜安寺で歌会を催した秀吉のことを思い出して下さい。歌会では参加者全員が石庭のことには全く触れずに絲桜を詠んだことを紹介しました。秀吉も派手に咲き誇る桜が大好きでした。

 桜の名所醍醐寺での花見の計画を決めると、洛南伏見の宇治川沿いに伏見(不死身)城を築造しながら、すぐ近くにある醍醐まで自ら出向いて準備を直接指導しています。下醍醐から上醍醐への途中花見山までの山道を、花見の園路にするため近隣諸国から集めた桜700本を植えさせました。花見当日1598年3月15日は、1000人を超える武将、女房たちを招き、秀頼、北政所、淀君などを引き連れ、自らは輿に乗って桜道を練り歩きました。

 花見山は厳重な柵を幾重にも廻らせ伏見から下醍醐までの警備も厳重を極めたといいます。

 都の人達は秀吉一族と家臣団の花見の様子を一目見ようと群をなして見物したと伝えられています。

3.三宝院庭園

(1)秀吉の縄張りと施工管理

 時の権力者が荒廃した寺社などの復興に力を入れることはよくありますが、秀吉も応仁の乱で荒廃した醍醐寺に対して大いなる支援を施し、当時金剛輪院と称していた三宝院の書院造系庭園についても、花見の下見を行ったときに立ち寄り、大改造のため自ら縄張りまでしています。

 花見の宴が終り3週間後4月7日から改修工事を開始します。翌8日には歴代武将に引継がれた天下の名石「藤戸石」が聚楽第から運び込まれ、9日には庭の中央部に立石するという手際の良さでした。元々在った庭園の骨格を活用しながらであったとはいえ、池、築山、滝、石橋など40日足らずで1598年5月13日ほぼ完成に近い形に仕上げることに成功しました。

(2)秀吉の逝去と設計変更

 一応の完成を見てから約3カ月後、秀吉は8月16日63歳の生涯を閉じました。強大な支援者であった秀吉の死後、秀頼や北政所の支援があったとはいえ、やはり全体計画は縮小せざるを得なかったと思われます。工事は義演准后の指揮のもと30年以上も続けられました。義演が現場を遣らせたのは与四郎という庭師でしたが、後に後陽成天皇から作庭の天下一の上手として「賢庭」の名を授けられた人物であろうと推定する説が有りますが、定かではありません。

 最後の大改修は1623年から翌年にかけて施工されました。この時中島を分離し、現在見るような亀島と鶴島の二島にしました。また木反橋、板橋、土橋、芝橋、石橋など様々なデザインの橋がいくつも架けられました。平面図を見ながら数えて見て下さい。


三宝院庭園

【図の解説】
中央が左右の脇石を従えた藤戸石。凛然とした主石。右上には秀吉を祀る祠。
左端が三段の滝、上段と下段が見える。右は亀島で手前の白く見えるのが石橋、その向こうに見えるのが土橋。
背後の醍醐山の一部が借景となっている。

 桃山時代特有の豪快な石組、景石、植栽の庭を、書院に座して観賞する座観式の書院造系庭園から庭園を回遊しながら景の変化を楽しむ回遊式庭園の機能を持たせるような改修と見ることができます。秀吉が本庭の改修着手時に行幸を想定していた後陽成天皇の弟君で、かつて秀吉の養子になったこともある八条宮智仁親王によって回遊式庭園として有名な桂離宮が造営されるのも丁度この時期になります。また後陽成天皇の第3皇子である後水尾天皇による修学院離宮の造営は、これより30数年程後のことになります。

4.庭園の見どころ

(1)池泉の護岸石組

 東西の幅が約55メートルの池泉の護岸石組の水面下の部分は見えませんが、平成14年度からの大滝護岸石組の修復整備により、構造が概ね判明しました。突き固めた粘土質の土の上に直接石を置く工法だったようです。わずか40日程の短期間に作庭されたことから、効率的な工法として納得できますが、施工には漏水の無いよう高度な技術を必要とされます。

 桃山時代の豪快で壮麗な石組は、どの部分を見ても心地よい快感があります。

(2)藤戸石

 足元の左右を脇石で絞めて据えられた藤戸石は庭園の東西軸のほぼ中央にあり、凛然とした存在感のある主石です。建物の方から見ると奥宸殿正面に位置します。江戸時代になってから移築された純浄観は当初は無く、秀吉は天皇の行幸を仰ぎ、奥宸殿からこの名石を披露する心積りだったのはないでしょうか。現在では純浄観のために視野が限定されて、奥宸殿から見る藤戸石は純浄観に登る階段の下に収まっています。秀吉の突然の死によって、建築物の規模や配置も変更されてしまい、主石の藤戸石の観賞位置も秀吉の想定した通りになっていないのかも知れません。

 なおこの藤戸石は岡山県倉敷市藤戸町の産出とされていますが、変輝緑岩という石質で、専門家の尼崎博正先生はこの地での産出は考えられないと述べています。

 誰が何時手に入れたのか判然としませんが、足利義政の手に在ったこともあるようです。だとすると当時は慈照寺銀閣寺に在ったと考えられますが、如何なものでしょうか。その後細川管領に渡り、織田信長が足利義昭のために造営した二条第に献納されました。1586年秀吉の聚楽第に移され最後に三宝院に移動させたものです。

 この藤戸石の背後南側の高所には、秀吉を祀る豊国稲荷大明神の祠が西向きに建てられています。冬場樹木が葉を落とす頃はよく見通すことが出来ます。

(3)3段の滝

 1615年(慶長20年)義演の念願であった滝が庭の東南隅に築造されました。上中下3段の滝はそれぞれ向きを変えることによって、水の趣を変化させようとしたものです。最下段の落水は、表書院からよく見えるように設えてあります。滝の代表的な石組の模範となっているもので、例えば明治期に作庭された無鄰庵の滝に踏襲されています。

 さすがの与四郎でも義演から何度も手直しを命じられ、完成までに2月を要したといいます。

(4)土牛の桜

 これは庭園と関係のない話です。

 拝観券を買って三宝院の門を潜ると大玄関前の広場に出ます。向かって左に三本の枝垂れ桜の大木が在ります。一番奥の老木は樹高11メートル、幹周3メートル余、枝張り16〜18メートル、樹齢150年以上と推定されます。この桜が何故話題になるかといえば、今から40年程前に描かれた名作のモデルだったからです。高名な日本画家の奥村土牛が名乗ることも無く何日も通って枝垂れ桜のスケッチを描き、ついに名作「醍醐」が生まれました。

 何時枯れても可笑しくない老木の遺伝子を何とか残そうと、S緑化株式会社が土牛の桜のクローン培養に成功しました。庭の右側にある細い6〜7メートルの若木がそれで、最近花をつけるようになりました。数か月後桜の開花時期に花を咲かせるのを見たいものです。

京都市歴史的風土保存区域 指定 昭和41年(1966年)
醍醐特別保存地区 決定(変更) 平成8年(1996年)
ユネスコの世界遺産 登録 平成6年(1994年)